よもやま話 交友・人物編
ウェイン・ショーター
ウェイン・ショーターをオーチャードホールに聴きに行った。
現在80歳。
ウェイン・ショーターというのはジャズの世界ではとても有名な人で、過去に大物ミュージシャンとの幾多の素晴らしい演奏を残している。
数年前に聴いた時は体調が思わしくなかったのか、だいぶ衰えたように見えたが、今回は凄かった。
信じられないような集中力とパワーを見せてくれ、さらに緻密でかつ自由で新しい、あの独特なウェイン・ショーターの世界を満喫させてくれた。
ずいぶん前に経営者の間でサミュエル・ウルマンの「青春(Youth)」という詩がブームになったことがあるが、まさにそれを地でいく今回の演奏だった。
“YOUTH” Samuel Ulman
Youth is not a time of life -it is a state of mind ; it is a temper of the will, a quality of a imagination, a vigor of the emotions, a predominance of courage over timidity, of the appetite for adventure over love of ease.
Nobody grows old only by deserting their ideals. Years wrinkle the skin, but to give up enthusiasm wrinkles the soul
Worry, doubt, self-distrust, fear, and despair ― there are the long, long, years that bow the head and turn the growing spirit back to dust.
Whether seventy or sixteen, there is in every being’s heart the love of wonder, the sweet amazement at the stars and the starlike things and thoughts, the undouted challenge of events, the unfailing childlike appetite for what next, and the joy and the game of life.
You are as young as your faith, as old as your doubt; as young as your self-confidence, as old as your fear, as young as your hope, as old as your despair.
So long as your heart receives messages of beauty, cheer, courage, grandeur, and power from the earth, from man and from the Infinit, so long you are young.
When the writer are all down and all the central place of your heart is covered with the snows of pessimism and the ice of cyncism, then you are grown old indeed and may God have mercy on your soul.
《日本語訳》
「青春」 サミュエル・ウルマン
青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときに初めて老いが来る。歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。
苦悶や狐疑や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。
年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
曰く、驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる事物や思想に対する欽仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。
人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる、
人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる、
希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる。
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして偉力の霊感を受ける限り、人の若さは失われない。 これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉の厚氷がこれを堅くとざすに至れば、この時にこそ人は全く老いて、神の憐れみを乞うる他はなくなる。
以上がサミュエル・ウルマンの「青春」で、とても真理をついている。
少し大仰ではあるがウェイン・ショーターを観てこれを思い出した。
経営者にも、たまに歳を聞いてびっくりするような若々しい人がいるが、恐らくこういうことなのだろう。
どこの世界にも凄いのがいると改めて感じたコンサートだった。
変化を生む危機意識
いささか古い話になるが、以前オリンピックで優勝した荒川静香さんは、アマ競技を引退してプロになるとき「これからは高さやスピードでびっくりさせるのではなく、美しさでうっとりさせることを目標にしたい。」と語っていた。
オリンピックではジャンプの高さや回転、またステップの難易度などを主に採点するらしい(私は素人なので詳しいことは分からないが)が、プロとして米国でツアーに行くと、観客はそういうことより華麗で美しいパフォーマンスを求めているそうだ。
そして、人気のあるスケートのプロは年間何億も稼ぐという。
この転身は、「技術力の評価」から「観客の感動」へと目標が変わったことを意味する。
プロは結果(観客の感動→チケットが売れる→興行の収益増大)が大事だということなのだろう。ここでのアマとプロの評価の違いは、新入社員とベテラン社員の評価項目の違いに似ている。
目標が変われば要求されるものが変わる。そして要求されるものが変われば自ずと動きが変わる。目標がはっきりしなければ動きはあいまいになる。
会社の経営も同じ。
経営目標(どういう考えで何を目指すか)が明確でなければ戦略(戦い方、考え方、行動の仕方、そのために何が必要か)が立たず、それが決まらなければ社員の評価(正しく行動できたか、目標達成に貢献したか)もままならない。
「何のためにやっているか」によって全く違う目標を立てることになり、それにより全く違う動きが要求されることになる。
会社の目標は日々変化する。極端にいえば毎日変化するものだ。
そして忘れてはならないのは、この変化の根底にあるものは経営トップの「現状に対する危機意識」にほかならないということだ。
経営トップの危機意識(このままではいけない、何とかしなければ)が改革を断行する唯一の原動力となる。(それ以外の理由で改革が行われ成功した例を私は見たことがない)
去年ヤフーの経営者が交代したが、それなどは象徴的な出来事だと言える。
思った時が行動する時だ。
経営者の決断が全てを決する。
リクルート創業者 江副浩正
江副浩正さんが亡くなった。
一代でリクルートをあそこまで大きくした人で、大変魅力的な人だった。
世の中ではリクルート事件で有名になってしまったが、経営者としてはとても有能でアイデアに溢れスピード感と行動力に富んだ人だった。
社内では事務の女性アルバイトにも「江副さん」と気軽に呼ばれいつもニコニコしていた。
しかし上に行くほど怖がられており、本社の役員や関連会社の社長たちは江副さんが来ると急に緊張して顔つきが変わる、というくらいのものだった。
私がたまたま関連会社の人事の責任者をしていた時に、ちょうど政府が就職協定を守らせるためのプロジェクトのようなものを立ち上げ、リクルートがそのオブザーバー企業になった。
身内から就職協定違反が出ないようにということなのか、毎月一度、江副さんを始めリクルートの専務と常務、主要関連会社の人事責任者が全員参加した会議が開かれていた。
私が30代前半で江副さんが40代後半だったように思う。
毎月顔を会わせるようになってから分かったのは、「シンブル」で「複雑」、「もの静か」で「アグレッシブ」という人格だ。それぞれ背反したものを持っている不思議な人だった。
情報産業(今で言うITでなく情報そのものを扱う会社)がまだ世の中に認知されていなかった時代だったがゆえに、物を扱う会社への憧れや引け目を感じていたようだ。今からは考えられない感覚だが、当時はそういう状況だった。
必要以上に目立つことはせず、かなり地味にやっていたつもりだったが、やはり急成長と高業績そしてユニークな経営が自然と注目を集めたのだろう。
その辺りも原因の1つになって、後のリクルート事件が起こったような気もする。
当時のリクルートは決して大人の会社ではなかったが、そこがまた面白かった。
当時のリクルートから学んだものは大きい。
いろいろ思い出はあるが、江副さんが亡くなって今年はリクルートも上場するそうだ。
大きな区切りができて、今回のことで私の中の「リクルート」は終わった感がある。
寂しいけれどしょうがない。
地井武男
先日亡くなった地井武男が出演していた「ちい散歩」という番組が終了したが、このところまた違った形で注目されている。
本が売れたりDVDが売れたり、また都内のデパートで関連イベントが開かれたりしている。
決してドラマでも大作でもない単なる一番組としてはとても珍しいことだ。
この番組は、地井武男が下町などを散歩して、そこに住んでいる人達と軽口を叩きながらその町を紹介して歩く、というものだった。
最初は「とりあえず始めてみました」というような番組だったが、これが意外と人気が出て何と6年間にわたり1500回以上も続いたそうだ。
役者だった地井武男には失礼だが、この「ちい散歩」は彼の代表作と言ってもいいように思う。
シナリオも決められたセリフも何も無い、全編アドリブという役者にとっては普通苦手とされるものだったように思うのだが、これを彼独特の大いなる自然体でやり切っていた。
こういうことができる能力というのは、元々持っていたものかも知れないが、それまでの役者という仕事を通して少しずつ身につけたものでもあるのだろう。
この番組を企画したプロデューサーは、なかなか人事のセンスがあったように思う。きっと、番組の内容より配役が先にあったのだ。
無理矢理人事的にいえば、これはまさに日本的な「職能給」の発想だ。欧米の職務給の発想だと、こうはならない。
「これができる人を探してこよう」ではなく、「この人に何をやらせようか」なのだ。
この発想がピッタリはまった。
最近の馬鹿騒ぎするばかりのテレビ番組の中で、昭和の香りのする独特な味のある番組だっただけに少々残念に思う。
東京ヴェルディ社長 羽生英之
私が昔からよく知っている人に東京ヴェルディ社長の羽生英之氏がいる。
実は私は彼の父親と知り合いで、その関係で彼がサッカー界に入るずっと前から知っていた。
私はサッカーにそれほど興味が無いので、彼が勤め先のJRからジェフ市原に移ったと聞いた時は「ふーん、変わった奴だ」と思った。
最後に会ったのが7〜8年前だから、まだ彼が三十代の後半くらいだったと思う。
その後、彼はJリーグの事務局長になり日本サッカー協会の若き理事となった。
その時は「頑張ってるな」と思っていたが、またその後はそのまま忘れていた。
再び思い出したのは2年前、新聞に載った「Jリーグの事務局長の羽生英之氏が東京ヴェルディ再建のため社長に就任する」という記事を読んだときだった。
兼務とはいえ大変なことを引き受けたものだ。そしてその後再建が軌道に乗り、周囲の強い要請があり東京ヴェルディ専任となったらしい。
その経緯と詳しい内容はよく知らないが、Wikipediaにはこう書いてある。(一部抜粋)
羽生英之(はにゅう ひでゆき、 1964年4月3日 )は日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)元事務局長。現在東京ヴェルディ1969代表取締役社長。
2005年12月にJリーグ事務局長に就任。2010年、親会社の撤退による経営危機に立たされた当時J2の東京ヴェルディの経営に介入し、史上初となる事実上のJリーグ直轄運営を行うにあたり、Jリーグ事務局長との兼務の形で社長に就任。その後新スポンサー探しに奔走する最大の功労者となった。
東京ヴェルディはその後複数の企業グループの共同出資を取り付けることに成功。当初はこの再建のめどが立ったところで一旦経営から退く予定だったが、周囲から羽生の続投を希望する声が殺到したため、Jリーグ事務局長の職を辞し、同年10月東京ヴェルディ社長に専念することが決まった。
Wikipediaでここまで絶賛される経営者もめずらしい。
彼はその素晴らしい再建手腕もさることながら、恐らく相当厳しいことをやりながらも人々(選手や観客、そして社員や出資者までも)を惹き付ける何かを持っていたのだろう。
いろいろ調べてみるとその発言や行動はなかなかのもので、一本筋の通った男気のある経営者なのだ。
乗りかかった舟とはいえ、順風満帆のJリーグを辞め前途多難な東京ヴェルディの経営に身を投じるなど、なかなか出来ることではない。
しかも「あなたが社長を続けなければ私は出資しない」と言うスポンサーがたくさんいたそうだ。よっぽど経営者として信頼されていたのだろう。
このところ会っていないが、どうしているだろうか。まだまだ厳しい状況が続くようだが、何とか成功させて欲しいものだ。
私は何も力になれないが、とりあえずファンクラブ(と言うのかどうか分からないが)に入ろうと思う。また、見に行けるかどうか分からないが、年間シートも買おうと思う。
もしこれを読んでくださった方で少しでも応援しようと思われた方がいらっしゃれば、ファンクラブ入会(たった3000円だ)と年間シート購入を是非お願いしたい。
彼は将来、日本のサッカー界を担う人材になるだろう。
陰ながら応援して行きたい。
リクルート共同創業者 鶴岡公
リクルート共同創業者の鶴岡公さんが先月亡くなった。
私は仕事よりプライベートで非常に親しくさせてもらった。
以前、銀座八丁目にあった「金太朗」というバーに毎日のようにいて、ニコニコしながら酒を飲んでいたのを思い出す。
私は当時(かれこれ25年前くらいになるが)新卒採用で最終面接手前の学生をよく銀座に連れて行き、酒を飲ませて観察していた。その中の店の一つが金太朗で、鶴岡さんはよくそこにいた。
以前から顔は知っていたが仕事で一緒になったことは無く、酒の席での付き合いが始まりで最後までその関係が続いた。
そのうち意気投合し、向こうも「いっちゃん、いっちゃん」と言って良くしてくれ、あちらこちらに飲みに行く仲になった。
大分前だが、鶴岡さんに連れて行ってもらった銀座の高級店で、不覚にも私が酩酊してしまい大変迷惑をかけたことがある。きちんと謝っていなかったことを今更ながら後悔している。
私はリクルートの昔の役員や幹部をたくさん知っているが、一番そういう意味で仲が良かったのが鶴岡さんだったように思う。何とも人懐っこく偉ぶることのない素晴らしい人物だった。
江副さんと二人でリクルートを創業し、あれだけの会社にした割に、生涯普通の人であり続けたのが鶴岡さんの凄いところだ。
こういう味のある人はもうリクルートには出ないだろうと思う。
何とも寂しいものだ。
弁護士 高井伸夫 2
2008年7月15日に弁護士高井伸夫さんについて書いたが、あれからそろそろ4年が経とうとしている。高井先生も70歳を超え、高井伸夫法律事務所から高井・岡芹法律事務所と名前を変え、後進に道を譲りつつある。
高井弁護士は言うまでもなく日本の法曹界における労働法分野の第一人者であり、私は以前企業にいた時代に出会ってかれこれ25年以上が経つ。
この人の凄さは何と言っても好奇心旺盛で行動力とスピードがあるところだが、それ以上に凄いのが(これは深く付き合わないとなかなか分からないが)、森羅万象の理を分かっていることだ。ものの道理が分かっていると言っても良いだろう。
分かりやすく言うと、何か問題が生じた時に「どこをどう押せば、どこがどう出る」というようなことが分かっているということだ。そして複雑な問題をいたってシンプルにしてしまう。
一見何も関心が無いような素振りを見せ、知らん顔をしてあらぬ方向を向いていながら、実は凄いスピードで考え緻密に分析していることが多い。
私が随分前に何かの会に出た時、たまたま隣に座っていた弁護士に高井氏の話をしたら、その人も名前を知っていて「高井先生の魅力は”論旨明快”の一言に尽きます」と言っていたのを思い出す。
本質を見抜く力とでもいうのだろうか、そういうセンスを持っている。私もその頃、近くで随分勉強したような気がする。私はたまに「市川マジック」と言われることがあるが、その大元は「高井マジック」なのだと思う。
今から10年以上も昔の話だが、日曜日の朝6時頃に電話があり、”何かあったのか”と慌てて出るとのんびりした声で「何してた?(寝てたに決まってる!)ちょっと事務所に来ない?」などと言う。誘われるままに朝早くタクシーで高井事務所まで行き、誰も居ない事務所で二人でサンドイッチを食べながら取り留めの無い話をして時間を過ごしていたことを思い出す。
そして、何の目的も無いようなそういう時間が、今となってはいろいろな意味があったように思えるのが不思議だ。
最近は会うことも殆どないが、いつまでも元気でいて欲しいものだ。昨年からfacebookを始めたようで(私も友達になっているが)、相変わらず海外視察にも頻繁に行かれているらしく、まだまだ好奇心と行動力は尽きないようだ。
以前、高井事務所に大塚さんという事務長がいた(大塚さんはもう亡くなってしまったが)ときに、その大塚さんを囲んで有志が集まり酒を飲む「大塚会」という集まりを主催し、私の事務所で月一回酒盛りをしていたことがある。そこには高井事務所関係者だけでなく、私が顧問をしていた会社の社長たちも多く集まり、高井先生の話題で大いに盛り上がったものだ。
さすがに後半は不定期になったが、それでも5年ほどは続いたように思う。毎回高井先生の話題を肴に盛り上がっていたが、5年間も肴にできるほど話題が尽きない高井伸夫という人は、今さらながら凄い人だと思う。
大塚さんが当時良く言っていた「いやあ大変だけどしょうがないよ、惚れた弱みだね」というセリフが今でも忘れられない。
今回は何故だか急に懐かしくなって高井先生のことを書いてしまった。迷惑だったら申し訳ない。
テナー奏者 井上淑彦
井上さんが25日に亡くなりました。
昨年、食道癌が見つかりその治療をするために10月以降のライブを休んでいました。
私が15歳、井上さんが16歳のときからの付き合い(間があいていた時期もあるけれど)だったから、45年以上になります。
今日がお通夜で明日が告別式。
演奏も素晴らしかったけれど、人間としてもとても魅力的な人でした。
こんなに素晴らしいジャズミューシャンは、日本にもう二度と出てこないような気がします。
本当に素晴らしい人でした。
とても悲しい。
以前書いた記事をやめて追悼の言葉にかえます。ゆっくり休んでください。
2015年 3月 30日 市川康雄
弁護士 高井伸夫
私の知り合いに高井伸夫さんという弁護士がいる。大変著名な方で、人事をやっていてこの人を知らなければ、もぐりだと言って良い。日経ビジネスの弁護士ランキングでは、何年も続けて人事労務部門でトップランクに入っている。
私は知り合ってかれこれ20年ほど経つが、いまだに刺激を受ける稀有な存在だ。今でも、仕事を手伝ったり手伝ってもらったり、また食事をしたり酒を飲んだりの関係を続けている。
何人もの秘書をつかい、1年365日、毎日朝6時から深夜まで猛烈に仕事をしている。この方は昔から仕事のスピードや超人的なハードワークで有名な方なのだが、本当の凄味はもっと別のところにあると私は見ている。それは、情報収集力と緻密な分析力に裏打ちされた類まれな先見性だ。私はこの人の言ったことが、半年、1年たって現実のものとなるのを何度も見ている。
話をしていて何かヒントを得ると、すぐにその辺の紙の切れ端にササッとメモ書きし、ポケットにしまいこむ。また、1日の仕事を整理して、テープレコーダーに翌日の指示を入れ、次の日の朝には全メンバーにきちんと伝わるようなシステムを確立している。この情報に対する感度には舌を巻く。
もしこの方と仕事で一緒になる機会があれば、そのあたりを充分に味わって欲しい。弁護士としても勿論だが、ビジネスマンとしても滅多にいないスーパーマンだと私は思っている。
先ごろ出た雑誌で「日本の弁護士納税額TOP10」に入っていたそうだ。もういい歳なのだから、あまり頑張って稼がずに、そろそろゆっくりしたら良いのにと思う。
ピアニスト 辛島文雄
日本のジャズピアニストのナンバーワンといえば辛島文雄さんだろう。私は自分でも楽器を演奏するが、それより何より「聴き手のプロ」を自認している。日本人の演奏がまだ本場のジャズに遠く及ばなかった時代から、ずっと聴き続けている。
辛島さんの演奏は彼が20代のころから聴いているが、50歳を越えたあたりから素晴らしく円熟してきた。以前は「俺はブルースなんて弾かない」などと偉ぶっていたが、最近は嬉々として普通のブルースを弾いている。原点に戻って音楽を楽しんでいるように見える。歌い上げるようなピアノから豊かな情緒を感じる。
日本には古くから、「守・破・離」という言葉がある。「教えを守り」「自分なりの発展を試み」「最後は型を離れて独自の世界を創り出して行く」、というものだが、辛島さんは今まさに「離」をピアノで表現している。
最近出したジャック・ディ・ジョネットと組んだピアノトリオのCD「グレートタイム」は最高傑作と言えるだろう。あの天才ドラマーとこういう演奏ができるというのは、やはり辛島さんも天才なのだろう。今がまさに絶頂期なのではないかという気がする。
また今年もトリオのツアーが決まった。今回のドラムは前回のツアーと同様高橋信之介だ、昨年のツアーの時よりシンバルレガートが素直になって全体的にノリが良くなっている。このドラマーは今どんどん成長している。アメリカで相当鍛えられているのだろう。このトリオは聴かないと損だ。
一度辛島さんの演奏を生で聴いてほしいと思う。本当にふくよかな、かつ刺激的な演奏が聴けるはずだ。